平等寺 (京都市下京区) (Byodo-ji Temple (Shimogyo-ku Ward, Kyoto City))

平等寺(びょうどうじ)は、京都市下京区にある真言宗智山派の寺院。
山号は福聚山。
本尊は薬師如来。
因幡堂、因幡薬師の名で親しまれている。
観音堂(十一面観音像を安置)は洛陽三十三所観音霊場の第27番札所である。
京都十三仏霊場第7番。

歴史

『因幡堂縁起』(『山城名勝志』所収)、『因幡堂縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)などに創建の由来が書かれている。
縁起は諸本によって内容に若干の違いがあるが、おおむね次のような話である。
大納言橘好古(たちばなのよしふる)の孫である少将橘行平(ゆきひら)は、長徳3年(997年)、因幡国司としての任を終えて京に帰ろうとしていたところ、重い病にかかった。
ある夜、行平の夢に貴い僧が現れ、「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦に貴い浮き木がある。
それは仏の国(インド)から衆生を救うために流れついたものである。
それを引き上げてみよ」と言う。
行平が賀露津の漁師に命じて、波間に光るものを引き上げてみると、それは等身の薬師如来の像であった。
この薬師像を祀ったところ、行平の病は癒え、京に帰ることができた。
この薬師像は天竺(インド)の祇園精舎の四十九院の1つ、東北療病院の本尊であった。
行平は薬師像をいずれ京に迎えると約束して因幡を後にしたが、その後因幡を訪れる機会がないうちに長い歳月が過ぎた。
その後、長保5年(1003年)4月7日のこと、行平の屋敷の戸を叩く者がある。
戸を開けてみると、それは因幡からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師像であった。
行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀った。
これが因幡薬師平等寺の起源であるという。
なお、薬師如来像が引き上げられた年を天徳3年(959年)とし、行平は勅命で因幡国一宮に参拝し、京に帰ろうとした際に病気になったとする縁起もある。
一説に薬師仏は因幡国にあった在地豪族・因幡氏の氏寺の薬師寺 (因幡国)に安置されていたといい、行平が京都へ持ち去ったとされる。

奈良における寺院勢力の強勢振りを嫌い、平安京内には、官寺である東寺・西寺以外に寺院を建立することは禁止されていた。
ただし、貴族の持仏堂は、建立が認められていた。
本寺も、これに相当する。
また、革堂(行願寺)のような、町堂(辻堂)の建立も認められていた。
因幡堂も、これらと並んで町衆の信仰を集めた町堂の代表格である。

平等寺の寺号は、承安 (日本)元年(1171年)に高倉天皇によって下賜されたものである。

文化財

重要文化財(国指定)
木造薬師如来立像
木造釈迦如来立像
木造如意輪観音坐像

狂言

狂言「因幡堂」の舞台であり、関係が深い。

所在地

京都市下京区不明門通松原上ル因幡堂町728

[English Translation]